特別館長だより 2025年
ページ番号1037877 更新日 2025年2月6日
終戦直後の大阪人形座と阪本一房さん―木村満子さんが語る
2025年は昭和100年、終戦から数えて80年です。その年初の1月17日、白寿をすぎた木村満子さんを当館にお迎えし、終戦直後の大阪人形座と阪本一房(かずふさ。通称:いっぽう)さんについて、ご自身との関わりを中心にお話をうかがいました。同席者は二度の阪本一房展でご協力いただいた堀田穣(ゆたか)氏と山下恵子氏、それに同展担当の藤井裕之学芸員でした。

木村さんはかくしゃくとして、声にも張りがあり、「わたしから歩くことをとったら、何も残らない」と自認するほどの健脚の持ち主です。事実、2024年秋の紙芝居展のときはご自宅から数キロの道を歩いてこられ、周囲を驚かせました。わたしはその時はじめてお会いし、はからずも『ふと立ちどまり』(自費出版、1987)のご恵贈をたまわって、このインタビューにつながったという次第です。
木村さんは一房さんから「先輩」と言われたそうで、人形劇とのかかわりは一歩先んじていました。とはいえ、おなじ戦後のこと、それほど差があったわけではありません。木村さんのほうは高等女学校の高等科を卒業したばかりで、教員にはならず、大阪市内で子供会(ピオニール)をつくりました。その活動の一環として人形劇を学びたいと思い、終戦の翌年、マリオネットを演ずる柏木茂弥さんのお宅(吹田市)にうかがったところ、柏木さんはサツマイモの軸(茎)を油で炒めてご馳走してくれたそうです。また、紙粘土でつくった人形のかしらを火鉢のまわりで乾かしていました。それにすっかり魅せられ、毎日でも来たかったけれど、主人の理解がなく、それでもときどき出かけていって、教えを請うたとのこと。そして吉野の竹林寺で上演された「三つの願い」(小山内薫作)がマリオネットの初出演となったそうです。これは全国農民組合関西支部大会のときで、人形の使い手は柏木氏のほか小代(しょうだい)義雄氏、柏尾喜八・朝子夫妻という、大阪人形座を継承するそうそうたるメンバーでした。木村さんは人形をもつことなく、舞台のかげで助手として走りまわっていたのではないか、と先述の著書には記されています。
他方、一房さんは戦後、復員して吹田の神境町で暮らしはじめましたが、電気代が払えないほど貧乏でした。それでも町内会や子供会に関わるかたわら、左翼思想のオルグ活動にも熱心で、「かきまわしのかずさん」と呼ばれていました。とくに伊藤君と仲が良かったそうです。伊藤君とはのちに新劇の新屋英子さんと短期間結婚することになった人物です。
その新屋さんと木村さんはそれぞれ神崎と平野で陸軍の集積所の同僚でした。しかも木村さんのご主人が神崎の課長だったという関係です。木村課長は軍属の少尉でしたが、戦時中から反戦思想に傾倒していて、地主の娘である満子さんに実家の小作料(年貢)を調べさせたこともあったそうです。木村さん自身も1945年3月に女学校を卒業し、家を飛び出して、新しい文化活動に魅せられていく時期に当っていました。
木村さんは豊津の小学校で人形劇を演じたとき、じっと後ろに立って人形に見入っていた軍服姿の阪本さんがまぶたに浮かぶと語っていました。一房さんのほうは木村さんについて、1946年、軍需工場で知り合った柏木さんに誘われ、小代さんたちが千里第一小学校で上演した「三つの願い」を見にいったとき、ジンベリンビンバ(小仙女)を演じていたと書いています(「大阪あたりの人形劇(11)」『出口座通信』第94号、1983)。そのため、木村さんの著書出版記念会のとき、阪本さんは木村さんについて「わたしより先輩です」と挨拶されたのだそうです。
かくして1948年1月10日、柏木さんが中心となり、小代義雄氏宅で大阪人形座が再出発することになりました。メンバーには一房さんを含め11名が名を連ねていますが、奈良に引っ越した木村さんの名前は入っていません。
木村さんは奈良で5年ほど暮らした後、大阪に戻り、1964年には千里ニュータウンに転居することになりました。しかも、たまたま電車の中で再会した八田剛さん(大阪人形座の元メンバー)から阪本さんたちの活動を聞き及び、ふたたび人形劇にかかわるようになったのです。40歳を過ぎ、子育てからようやく解放され、すこし自由がきくようになっていました。人形の声が足りない、女の声が足りない、ということで、お手伝いをしたそうです。木村さんは「吹田に戻ってうれしかった。阪本さんにお会いでき、寄せていただいた。ときどき呼び出されたぐらいで」と謙遜しておられました。出口座は1975年に正式に発足し、木村さんも一房さんの求めに応じ、主に声優として出演していました。声優といえば、新屋さんも一房さんの“戦友”として友情出演することがありました。出口座は小代先生や柏木さんはもとより、木村さんや新屋さんなど古い仲間にも支えられていたことが強く印象に残りました。
(2025年2月5日)