近代の吹田

ページ番号1031000 更新日 2024年3月14日

写真:近代の吹田

明治なかば大規模なビール工場が開業され、吹田でも産業の近代化が進みます。一方、山田村の小作争議などの社会問題もおこり、やがて戦争へとたどる吹田の近代を展示しています。戦後は千里ニュータウンや万国博覧会も紹介しています。

近代の歩み

長州出兵絵馬

写真:長州出兵絵馬
長州出兵絵馬 慶応元年(1865)

幕末の不安な政治状況のもと、幕府は長州に兵を送り戦いました。「淀侍従様」と記された中央馬上の人物は、淀藩主の老中稲葉正邦です。吉志部の村々は譜代大名である淀藩の領地が多かったため、このような絵馬が吉志部神社に奉納されたのでしょう。幕府は2度目の出兵で敗れ、時代は明治へと大きく転換していきます。

アサヒビ-ル引札

写真:アサヒビ-ル引札

アサヒビ-ル吹田工場は明治24年(1891)に、大阪麦酒会社吹田村醸造所として誕生し、その翌年初出荷されました。吹田の地はビ-ル造りに適した水が豊富であったことと、鉄道や神崎川の水運などによる運送に便利な土地であったため、この地が選ばれました。引札(ひきふだ)とは、今でいう広告・宣伝用のポスタ-で、この引札は絵師中井芳瀧が描いた創業当時のものです。

アサヒビ-ル貯酒樽

写真:アサヒビ-ル貯酒樽

この木製樽は、楢材を用いたビ-ル貯蔵用の樽で、約3000リットル・瓶ビ-ル約5000本の容量があります。ビ-ルは仕込みから発酵の過程を経て、約2か月かけて室温約0度の貯酒室で熟成させます。樽は開業当初は輸入されていましたが、やがて工場内で製作・修理されるようになり、昭和37年に鉄製樽やグラスライニング樽に代わるまで使用されました。

アサヒビ-ル製造所図面

写真:アサヒビ-ル製造所図面

総赤煉瓦造りで、フランス式組積み構造の西洋館は、地上4層に地下室を備える堅牢な工場建屋7ブロックからなっていました。ドイツのゲルマニア社の基本設計をもとに実施設計図を引いたのは、内務省技師の妻木頼黄(よりなか)でした。妻木は明治建築界の第一人者で、日赤本社や横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)などの設計を担当しました。

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戦争への道

賀川豊彦掛軸

写真:賀川豊彦掛軸

大正から昭和初期にかけて山田村では、大規模な小作争議が起こっていました。キリスト教徒で社会運動家で、『死線を越えて』の著者として知られる賀川豊彦は、しばしば山田村を訪れ小作農民を応援しました。この掛軸は賀川が山田村の農民に贈ったもので、残された書画にその影響の大きさがうかがえます。

三島無産者診療所ポスタ-

写真:三島無産者診療所ポスタ-
三島無産者診療所ポスタ- 昭和6年(1931)

高い医療費に苦しむ庶民のために開設された三島無産者診療所のポスタ-です。友禅工場の労働者や農民組合の支援で、加藤虎之助医師を所長に招き、現在の吹田市朝日町に開設されました。大阪の無産者診療所としては、先駆的な役割を果たしました。

山田養鶏組合旗

写真:山田養鶏組合旗
山田養鶏組合旗 昭和4年(1929)

政府の圧力のもと、小作争議で後退を余儀なくされた山田村の農民たちは、生計を立てるため、養鶏業に取り組みました。昭和10年の「三島郡山田村経済更生計画」には、山田養鶏組合について、「組合員36名、飼育羽数4700羽、鶏肉500円、卵ノ生産年5256円」と記されています。

西沢日記

写真:西沢日記

この日記は、太平洋戦争当時、吹田警察署長であった西沢與志雄氏が綴ったものです。4冊の大学ノ-トに記されたこの日記には、昭和19年(1944)5月31日から昭和20年12月6日までの吹田警察署長在任期間の記述があります。戦時下の市民の生活や、被災の状況が詳しく記され、吹田の貴重な戦争史料のひとつです。

空襲警報木札

写真:空襲警報木札

この木札は太平洋戦争当時、町内の人々に空襲警報が出たことを知らせるために掛けられたものです。裏側には「警戒警報」と書かれています。昭和20年(1945)の6月頃から、大阪をはじめとする阪神地方への空襲が激しくなり、吹田市域にも焼夷弾や爆弾が投下され、大きな被害となりました。

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新しい吹田

日本万国博覧会会場全景

写真:日本万国博覧会会場全景

アジアで初めての万国博覧会として、昭和45年(1970)3月15日から9月13日まで、大阪の千里丘陵で開催された日本万国博覧会は、入場者6400万人を越えるという盛況ぶりでした。「人類の進歩と調和」をテ-マに、70数か国が参加したこのイベントは、高度経済成長を経た日本を世界へアピ-ルする場となりました。

日本万国博覧会ポスタ-

写真:日本万国博覧会ポスタ-

日本万国博覧会の公式ポスタ-は、外国向けポスタ-なども含めて数種類制作されました。このポスタ-は昭和43年度前期の外国向けポスタ-です。「人類の進歩と調和」をイメ-ジしたシンボルマ-クは、5つの円は五大陸を表わしたもので、真ん中の円は日本を示しています。全体としては日本の国花である桜がデザインされたものです。

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