戦乱の吹田
ページ番号1030995 更新日 2024年3月15日
京と西国を結ぶ要衝に位置した吹田は、戦国時代には戦乱の渦中にありました。国人領主として成長した吹田氏や、畿内で展開された戦乱の様子を古文書などによって紹介します。
国人領主吹田氏
細川高国禁制(複製)

原本/玉林寺蔵
玉林寺は室町幕府の将軍を補佐する管領(かんれい)を多く出した細川氏ゆかりの寺で、持春の院号玉林院にちなみ寺号としています。管領細川家の高国方と晴元方の争いでは畿内全体を巻き込む戦いとなり、北摂の茨木・三宅・吹田・伊丹・池田氏などの国人たちもこの戦いに加わりました。この戦乱の最中、細川高国から当寺の保護のためこの文書が出されました。
細川高国・晴元合戦地図
応仁の乱(1467)が起こると守護大名家の多くは二つに別れ、戦乱は全国に広がりました。なかでも室町幕府の管領をつとめる細川家が高国方と晴元方に別れた争いは畿内全体を巻き込む戦いとなり、摂津の国人たちも軍勢を率いてこれに参加しました。享禄4年(1531)細川高国と細川晴元は摂津国内を転戦して天王寺で激突し、高国は敗れ、尼崎で自害します。こののちも戦乱は止まず摂津は戦乱の火中にありました。
惣道場の成立
方便法身像(複製)

原本/徳善寺蔵
吹田では、室町時代末から安土桃山時代にかけて浄土真宗の教えが急速に広まっていきました。16世紀半ば頃から、いくつかの惣村(そうそん)に本願寺から本尊として阿弥陀如来の絵像が与えられ、真宗の道場が発展していきます。絵像の裏にはこれを下した時の本願寺宗主顕如の名が記されています。
楽太鼓

市内山田の紫雲寺で、法会の際に使用されたものです。浄土真宗の本山では寛永3年(1626)頃より法会に楽が使われるようになり、末寺にも広がりました。意匠的にもすぐれ貴重な工芸品といえます。