荘園の生活
ページ番号1030994 更新日 2024年3月15日
中世の吹田市域にはいくつかの荘園が存在しました。なかでも、東寺伝来の文献資料と出土遺物から、東寺領垂水荘の動向と荘園に生きた人々の生活をたどります。
垂水荘の成立と展開
「垂庄」墨書土器
垂水南遺跡第5次調査において、歴史時代の河道跡からまとまって出土した44点の9世紀前半の墨書土器(墨で文字が書かれた土器)のひとつで、「垂庄」の文字が読めます。このほか「中庄」「中」「蔵」「高」「長」「七」などの文字や「○」「+」「∞」などの記号らしきものがあります。これらの墨書土器は、弘仁3年(812)に成立した東寺領荘園垂水荘と密接に関係する資料群として捉えることができます。
関連資料「垂水南遺跡(平安時代)」
後醍醐天皇綸旨(複製)
垂水荘(たるみのしょう)は、現在の吹田市江坂町・豊津町・江の木町・芳野町から豊中市小曽根町にかけて展開した荘園(しょうえん)で、平安時代から戦国時代まで東寺(教王護国寺)の重要な荘園として存続しました。東寺に伝来した多くの古文書によって、垂水荘の支配の動向だけでなく平安時代から戦国時代におけるこの地域と日本の政治・経済とのかかわりを知ることができます。
この文書は、後醍醐天皇から東寺長者である勝宝院大僧正道意にあててだされたました。垂水荘に対する武士や他の荘園領主の乱入を停止し、東寺の垂水荘支配を認めたものです。
※文書の複製等を希望される方は京都府立京都学・歴彩館へお問い合わせ下さい。
摂津国垂水荘図(複製)
この絵図は、寛正4年(1463)、田畑の面積・耕作状況の調査(検注・けんちゅう)のために東寺によって作られました。吹田市江坂町・豊津町から豊中市の一部が描かれています。南を上にして描かれ、縦に走るのは高川、上部にみえるのは三国川(神崎川)です。15世紀後半の垂水荘の荘域を示しています。
※文書の複製等を希望される方は京都府立京都学・歴彩館へお問い合わせ下さい。
蔵人遺跡
菊花散双雀鏡
室町時代初め頃の銅鏡で、直径は7.2cmです。溝の底に鏡背面を上にしてほぼ水平になった状態で出土しました。外区に21個、内区に20個の菊花が配され、上部には2羽の雀が向かい合います。
溝・川・池などから出土した和鏡は水辺の祭祀に伴う水中投入鏡といわれますが、この鏡の場合、どのような性格をもつものかはよく分かっていません。
宝珠唐草文軒平瓦
鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の江坂町2丁目付近の蔵人村の集落のなかには、円隆寺という寺院があったことが文献史料に記されています。円隆寺の伽藍の規模や配置は不明ですが、寺域推定地付近では丸瓦や鬼瓦片などが出土しており、この軒平瓦も、円隆寺のいずれかの建物に葺かれていたものと思われます。