千里石ぶみの丘 歌碑・石碑の紹介(僧良盛歌碑、与謝野晶子歌碑、会津八一歌碑)

ページ番号1009794 更新日 2022年8月31日

千里南公園に設置されている、歌碑・石碑を紹介します。

僧良盛(国上寺住職)歌碑

僧良盛住職の歌碑の写真


石ふみは鏡ならねどことの葉に
向かえばうつるありし世の影

安政五年(1858)新潟県分水町の乙子神社境内に良寛の詩歌碑が建てられ、良寛の追悼会が催された。
この歌はその席上でできた寄せ書の中にあり、国上寺の住職良盛和尚の作で、この時に建てた詩歌碑の性格を語りつくしている。
千里南公園の「石ぶみの丘」の入口にふさわしい歌として選ばれ、当時の市長榎原一夫が揮毫、建立しました。

与謝野晶子(明治11~昭和17年)歌碑

与謝野晶子の歌碑の写真


やわ肌の あつき血汐に ふれも見で
さびしからずや 道を説く君

明治33年(1900)の作。歌意は「女性のやわらかな肌を流れ燃えたぎる血汐、その熱い情熱に触れてもみないで、寂しくはないか、道を説く君よ。」

与謝野晶子の歌碑の拡大写真


晶子自身も「世の道学先生達よ、女の熱愛に触れることもしないあなた方の生活・感情を没却した生活はお寂しくないのでせうか」と解釈しています。
晶子は明治十一年(1878)堺の商家に生れ、堺高等女学校(現在の泉陽高校)を卒業。明治三十四年鉄幹を慕って上京。同年歌集「みだれ髪」を刊行。のち鉄幹と結婚した。
女性としての人間肯定、恋愛讃美の情熱的を歌を詠んだが、しだいに浪漫的ななかにも清澄な歌を詠むようになっていった。
「源氏物語」などの古典評釈や童話なども書き、歌壇だけでなく文壇でも評価されるようになり、社会問題でも指導的発言をした。
明治三十七年、日露戦争のさなかに「君死にたまうこと勿れ」を発表し、嗽嗽たる非難を浴びたことでも有名である。

会津八一(明治14~昭和31年)歌碑

会津八一の歌碑の写真


ひそみきて たがつくかねぞ さよふけて
ほとけもゆめにいりたまふころ

万葉調を基調とし、浄化の息づかいと古代の憧景(しょうけい)の思いで満たされています。
八一は明治十四年(1881)新潟県に生れ、中学時代から短歌・俳句を作り、早稲田大学卒業後母校で教鞭をとった。のち「夕刊ニイガタ」を主宰し、「南京新唱」「山光集」「寒燈集」などの歌集を出している。秋艸道人の名で世に知られるようになったのは、昭和十五年に「鹿鳴集」を出してからである。
短歌については素人をもって自任し、時流の外の存在として自らを持し、生涯歌風を変えなかった。
万葉調で古都詠唱をし、独自の歌風を開いた。仮名書きによる流麗で浪漫的な歌、対象への深い洞察の態度がある。書家としても一家をなした。歌集『南京新唱』『鹿鳴集』『寒灯集』随筆『渾斎随筆』などがある。

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