千里石ぶみの丘 歌碑・石碑の紹介(弘法大師空海碑、道元禅師雲門文堰禅語碑、後拾遺和歌集 日野舟聲先生筆)

ページ番号1009792 更新日 2022年8月31日

千里南公園に設置されている、歌碑・石碑を紹介します。

弘法大師空海碑

弘法大師空海の歌碑の写真


阿字の子が阿字の古里立出でて
又立返る阿字の古里
密教では万物は不生不滅で、その真理を体得することが悟りに至る根本であるとして、「阿字より出でて阿字に帰す」と説いています。
作者弘法大師(空海)は、宝亀五年(774)讃岐国(香川県)に生れ、二十四歳で仏門に入り、延暦二十三年(804)遺唐使に従って渡唐。留学すること三年、真言密教を学んで帰朝し高雄山寺に住して真言宗を開いた。
のち桓武天皇の命で教王護国寺(東寺)を経営し、また修禅入定の地として高野山に金剛峯寺を建てた。

道元禅師雲門文堰禅語碑

道元禅師の碑文の写真


日々是好日(日々、これ好日)
春に百花あり夏に緑風あり
秋に紅葉あり冬雪ありて
涼しかりけり
若し閑事の心頭にか挂ぐ無くんば
便ち是人間の好事節道元

この語は雲門文偃が弟子たちに向って、自問自答のかたちで、自分の生き方を告白されたものであるといわれる。
筆者の道元(1200~53)は京都の久我家の出身。十四歳で比叡山にのぼり出家したが、天台の教学にとけこめず、建仁寺を訪ねて栄西と明全に禅を学んだ後、明全とともに宋に渡り、天童山の如浄について参禅・帰朝後越前(福井県)の永平寺に移り、生涯を弟子の養成と仏法の興隆に捧げた。この語は道元の生き方であったともいわれる。

来る日も来る日も、楽しく平和なよい日が続く。一日一日を大切に生きる心がまえを教えていう。

後拾遺和歌集(巻19中務兼明親王)日野舟聲先生筆

後拾遺和歌集の歌碑の写真


道灌ゆかりの古歌の碑

七重八重花は咲けども山吹の
みの一つだになきぞ悲しき

七重八重に美しく花は咲くけれども、山吹には実が一つだってならないことが悲しいことだ。

後拾遺和歌集の歌碑の拡大写真


湯浅常山の軍談書『常山紀談』によりますと、江戸城を築いた室町中期の武将太田道灌(永享4~文明18年1432~86)が鷹狩りに出て雨に降られ、野中の一軒家で蓑(みの)を借りようとしたところ、若い女が無言で山吹の一枝を折って差し出しましたが、その意味が解らず怒って帰館しました。これを聞いた側近が、この古歌(後拾遺集)の意味だろうと答えました。
そこで大いに恥じて歌学に志すようになり、後にその知識が軍略にも大いに役立ったということです。

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