吹田市出身の直木賞作家 伊与原新さん、凱旋!〔市報すいた 令和7年(2025年)6月号〕

ページ番号1039247 更新日 2025年5月30日

 今年、『藍を継ぐ海』で直木賞を受賞した作家・伊与原新さんは、科学者から小説家に転身したユニークな経歴の持ち主。吹田市出身で、大学を卒業するまで市内に住んでいました。
 そんな伊与原さんが4月12日、市内に凱旋。まちなかリビング北千里で開催された講演会で、自身の半生や執筆の裏話などを話しました。講演の内容を紹介します。

伊与原新さん プロフィール

1972年生まれ。吹田市出身。山田第二小学校卒業。神戸大学理学部卒。東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。専門は地球惑星物理学。研究者時代に執筆した作品が第30回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家に転身。昨秋には14作目の『宙わたる教室』が映像化された。さらに今年、15作目の『藍を継ぐ海』で第172回直木賞を受賞。

“研究のアイデアではなく、ミステリーのトリックを思いついた”

 東京大学大学院を修了後、富山大学理学部の助教として、太古の地球の様子を明らかにするため昔の地磁気を復元する研究を行っていた伊与原さん。数十億年前の岩石を採取し、実験室で磁気を測定する日々を過ごしますが、思うような成果を得られず研究に行き詰まっていました。
 研究のモチベーションが低下していくなか、気付けば、論文を読む代わりに、幼少期から好んでいたミステリー小説にのめり込み、ついには実験の待ち時間にも読みあさるように。
 そんなある日、大学からの帰り道にミステリーのトリックを思いつき、自分にもミステリーが書けるんじゃないか?と、夜な夜な家でパソコンに向かって執筆し、原稿用紙500枚ほどの長編を書き上げました。
 出来上がってみると、自分の作品がどのくらいのレベルか知りたくなり、ちょうど募集中だった江戸川乱歩賞というミステリーの新人賞に応募。
 伊与原さんは「そこで最終候補にまで残りまして。で、気を良くして翌年、2作目を書いて、それを横溝正史ミステリ大賞に出したところ、ありがたく賞をいただきましてデビューしました」と振り返ります。

ドラマ化された『宙わたる教室』

第70回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書(高等学校の部)にもなった同作。
ある都立定時制高校で、さまざまな背景を持つ生徒たちが科学部の活動を通して起こす奇跡を描いた作品。

“年間予算たったの1万円の定時制高校科学部が賞を取ったと聞き、小説にしたい!と刺激を受けた”

 講演会では、ドラマ化された『宙わたる教室』にまつわる裏話も。実話からヒントを得た同作は、大学院時代の恩師から、日本地球惑星科学連合大会の高校生セッションで、大阪の定時制高校の科学部が優秀賞を受賞したと聞いたことをきっかけに生まれました。
 「セッションの参加校はほとんど進学校で、予算も潤沢にあり、プロさながらの研究装置を使って本格的な研究をするんですね。でも、定時制高校の科学部は年間予算が1万円くらいしかないから装置も手作りで、廃品を利用しなきゃならないアイデア勝負。そんな定時制高校の科学部が学会に出てきて発表をしているなんて初耳だったし、賞も受賞していて驚きました」。
 また、「さまざまな年代が集まる定時制高校の生徒には、高齢の男性や中高年の女性もいるので、顔ぶれを見て『科学部です』『高校の生徒です』って言われて、すぐには驚きますよね。そんな人たちが学会で発表している。そんな話を聞いたら、僕としては小説にしたいなと」。出版社の担当者に相談したところ、「鳥肌が立ちました。すぐにやりましょう」と、連載が決まりました。連載開始後にモデルとなった科学部の先生と知り合い、資料の提供を受けるなど執筆活動の協力を得られることになったといいます。

“科学の世界で一番大事なことを科学部のみんなが教えてくれた”

 執筆を機に、科学部のメンバーとの交流が始まった伊与原さん。2年連続で科学部の夏合宿に参加しているそうです。「本当に学ぶところが多いですね。自分も科学の道を歩んできているけれど、その中で刷り込まれてきた理屈とかは彼らにとっては後回し。まずは実際に手を動かして装置を作ってみる、実験して何が起きるかを見てみるというところから始めるんです。僕自身、科学の勉強や実験は、自分が理系の人間として、科学研究者や技術者として生きていくためのステップであったと考えている部分が少しはあると思うけれど、彼らにはそんなことは関係なし。定時制には文系も理系もないので、物理や数学が得意不得意という考えも薄く、とにかく実験が楽しいからやっているという雰囲気でした。ですから、科学部の生徒さんたちは、意外と卒業してからも理系に進まないんです。高校にいる間に部活動をし、実験をして楽しかった、それでいいじゃないかという感じなんです。この姿勢は、これからの科学の世界で一番大事な姿勢のような気がして。文理の壁を作っているのは理系の側なんじゃないかと思いました」。

今でも伊与原さんと同校科学部の交流は続いており、今年も科学部の夏合宿に参加する予定だそう

“制作陣が原作小説を愛してくれたことが、自分にとって幸運だった”

 『宙わたる教室』が評判を呼び、昨年10月にはNHKにて同名の連続テレビドラマが放送されました。原作小説に忠実な再現が行われ、原作者としても納得できる内容に。ドラマの撮影では実際に実験を行っていますが、小説では、すんなりうまくいっていることが撮影現場ではなかなかうまくいかない。しかし、苦労しながら撮影したおかげでキャストやスタッフたちがまさに科学部のメンバーのようになっていったといいます。

直木賞を受賞した『藍を継ぐ海』

日本各地を舞台にした全5編の短編を収録。どの物語にも科学の知見が織り込まれている。
科学によって世界の解像度が鮮明になっていく、読み終えるころには心晴れやかになる作品。

“立派な地質学者がいたことを小説という形で残したかった”

 伊与原さんが『藍を継ぐ海』で最初に書いたのは『祈りの破片』。長崎県を舞台に、原爆投下時の遺物が空き家で見つかったことによりストーリーが展開していきます。作中に登場する地質学者のモデルは、原爆の爆発点・爆心地の特定に尽力した、広島平和記念資料館初代館長で地質学者の長岡省吾さん。
 「長岡さんは、原爆投下直後の広島でレンガや瓦が発泡したようになっている姿を見て、これは特殊な爆弾が落とされたと思い、町中歩き回ってレンガや瓦などの遺物を集めるんです、誰にも言わず。そんな人がいたなんて、地質学を勉強した人間として、すごいなと思いました」
 しかし広島でも彼を知る人が少なくなってきていることを残念に思い、小説という形で残したいと考えていた伊与原さん。同じような学者が長崎にもいたと想定して『祈りの破片』を執筆しました。

“なぜ見島の土じゃなきゃいけないんだろうと興味を引かれた”

 ほかには、ウミガメやニホンオオカミにまつわる物語も収録されており、いずれも伊与原さんがもともと興味のあったものをテーマに書かれています。一方で、執筆の題材として新たに調べたことから面白さに引かれた作品もあるといいます。それは、萩焼を題材にした『夢化けの島』。
 地質学的な題材として土はどうかと編集者から提案を受け、土にはあまり興味がないものの持ち得る土の知識を総動員し、焼き物が固まるのは土に含まれる粘土鉱物という性質のおかげだということを思い出した伊与原さん。それをきっかけに焼き物について調べていくなかで、物語の鍵となる萩焼にたどりつきました。
 萩焼の原土の一つとして欠かせないのが、山口県萩市から日本海沖45キロメートルほどの距離にある見島でしか取れない土。気になって調べていると、萩市職員から、江戸時代の名工が島流しから戻ってくる際に見島の土を持ってきたのが、萩焼に見島土が使われるようになった始まりだと教えられました。「それ、めちゃくちゃ面白いじゃないですか」と小説に取り入れることを決めた伊与原さん。見島や萩まで取材に赴き、萩焼の宗家・坂高麗左衛門の窯などを訪れました。そこで見ることができた見島土や登り窯などは、いずれも作中に登場しており、伊与原さんが取材を重ねるなかでたどりついた面白さが主人公たちの姿にも重なります。

別録インタビュー
もっと知りたい! 伊与原さんのコト

Q.吹田での思い出は?

 太陽の塔を見ると、地元に帰ってきたと感じます。休日にお弁当を持って家族でよく万博記念公園へ遊びに行ったのは、いい思い出です。私が小学生だった1980年代の千里丘にはまだ空き地が多くあって、友だちと野球やサッカーをして遊ぶ場所には困りませんでした。夏休みにはセミ捕りに町じゅうを駆け回り、近所の小さなため池ではちくわをエサにザリガニ釣りに夢中になりました。
 家の中ではよくマンガを描いていました。藤子不二雄先生が大好きで、小学生の頃は将来マンガ家になりたいと思っていたのです。創作に対する興味は、実はその頃からあったのかもしれません。
 大学生のときには2年間ほど、エキスポランドでアルバイトをしていました。ジェットコースター乗り場を長く担当して、大学とはまた違った友人もでき、いい社会経験になりました。

Q.子供のころから本や科学は好きだった?

 本好きの母の影響で、子供のころから移動図書館や、まちの図書館に通っては、さまざまなジャンルの本を読んでいました。ミステリー小説をよく読み、分厚い本にも挑戦していましたね。
 小学生のころからは、メーカーエンジニアで自然科学が好きな父と、当時人気を博した天文学者が司会のテレビ番組「コスモス」を見たり、科学雑誌『Newton』を読んだりするうちに、科学や天体に興味を持つようになりました。
 高校時代に地学の本を読み、地球の仕組みを理解していくうちに本格的に地球物理学の面白さに目覚め、研究者になりたいという思いが湧いてきまして。大学・大学院では地球磁場について研究する日々を過ごしました。今では研究者時代に培った人脈から小説の題材のヒントを得ることも多いです。

Q.小説を書くうえで大事にしている思いは?

 科学的な事実や成果が報じられることはあっても、科学者たちが何を考え、どんな思いで研究しているのかということまではなかなか分からないと思います。科学はあくまで生々しい人間の営みであり、それに関わる人々の人生にもさまざまなドラマがあります。人間的な魅力にあふれた科学者たちの姿を描き出すとともに、彼らに世界がどのように見えているのか読者に追体験してもらえるような小説を書こうといつも考えています。
 小説の中で科学的な事柄を伝える際には、いたずらに説明のレベルを下げるのではなく、情報を出す順序に気を配っています。読者に「面白い!」「ほんと?」と感じてもらえるような“美味しい”ところをまず示して、そこに最低限の解説を加えていくというやり方がよいようです。

注目の次回作『翠雨の人』

 この夏、単行本化される新作は、「猿橋賞」の創設者・猿橋勝子さんを主人公とした伝記小説。大正生まれで、大学に行く女性が少ない時代に物理や化学を学び、地球化学を専門に海水の炭酸濃度に関する研究などを行った女性科学者の先駆者でした。
 彼女の名を一躍世界的にしたのが、1954年にビキニ環礁の水爆実験で降った「死の灰」の分析。幾度となく繰り返した実験、アメリカとの分析バトルを経て、太平洋の放射能汚染の実態を明らかにし、世界的に評価されることになったといいます。
 「アメリカは当初、日本の分析結果に反論しています。そこで、猿橋さんが単身アメリカに乗り込むのですが、続きは同作でぜひ」(伊与原さん)。

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