千里丘陵の須恵器生産
ページ番号1031003 更新日 2024年3月14日
古墳時代に朝鮮半島から伝来した須恵器生産は、大阪平野では南部の「陶邑」と並んで北部の千里丘陵でも開始され、その後、大規模な須恵器生産地帯へと発展していきました。その様子を窯の移築資料や原寸模型、窯跡出土品で紹介しています。
吹田32号須恵器窯跡
須恵器 器台
吹田32号須恵器窯跡の窯体床面から出土した須恵器器台の鉢部の破片で、復元すると口径39.6cmになります。鉢部上半は4条の突帯で文様帯に区切られ、上から斜格子文、連接鋸歯文、上向鋸歯文、斜格子文が丁寧に施されています。5世紀初頭に朝鮮半島から日本列島に須恵器が伝来してまもなくの頃の特徴をよく示しています。
吹田の須恵器
ヘラ記号のある須恵器
須恵器にはヘラで書かれた記号がしばしばみられます。これは陶工や窯の目印、あるいは須恵器を発注した側の符号などと考えられていますが、よくわかっていません。吹田38号須恵器窯跡では、波状の記号を付した須恵器がまとまって出土し、1基の窯で決まった符号を持つ一括資料として重要です。