佐井寺地域

ページ番号1031122 更新日 2024年3月19日

モデルコース 徒歩2km

JR吹田駅→阪急バス停佐井寺→向かい坂地蔵→佐井寺→愛宕神社→佐井の清水→佐井寺伊射奈岐神社→佐井寺くり抜き水路→阪急バス停佐井寺→JR吹田駅

地図:佐井寺地域

地図:佐井寺周辺図

佐井寺地域【向かい坂と地蔵道標】

(佐井寺1-10)

ここは「向かい坂」と呼ばれ、天道から佐井寺へ向かう道と岸部村から出た佐井寺観音へ参詣する道とが出会う所です。この位置に建てられていたとみられる石造物が、佐井寺交番南向かいの「向かい坂地蔵」と呼ぶ所にあります。これを道標と呼んでいいものかわかりませんが、享和3(1803)年・文化7(1810)年の年号と二法名が彫られていて、地蔵像を中央にして「右 吹田」「左 きしべ」と刻んでいます。なお、13体の「向かい坂地蔵」は、近くのもと茶畑の中から掘り出されて祀られるようになり、かつては「村はずれのお地蔵さん」と親しまれています。

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佐井寺

(佐井寺1-17)

真言宗の佐井寺は元禄5(1692)年の記録には、天平7(735)年に行基が寺より西の山に瑞光を見て、土中より栴檀の十一面観音像を掘り出し、この観音像を本尊にして現在の地に七堂伽藍を建てたのをはじまりとし、山田寺と名乗ったとあります。江戸時代に作られたとみられる縁起には、行基が朝廷に本尊のことを奏上し、山田大臣が大壇主となって伽藍を建立したことにより山田寺と称するようになったと記載します。行基が御本尊を掘り出した場所は行基山と呼ばれ、現在は愛宕社が祀られています。

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佐井寺境内

元禄5(1692)年の記録には、かつて境内には七堂伽藍と六坊があったが、伽藍・五坊が衰退し、残った一坊に本尊や他の仏を移して雨露をしのいだと記されています。これが地蔵坊で、山田寺境内絵図に僧坊と注記されて描かれる建物でしょう。また絵図によると、本堂や護摩堂の位置は変わりませんが、鐘楼は現在よりも南に描かれ、移設されたことがわかります。鐘は当地を治めた京都所司代板倉重宗が慶安2(1649)年に寄進したもので、正保4(1647)年に楽順が寺を中興したいきさつなどを記します。鐘楼は江戸前期の建築様式であることから鐘と同時期の建立と考えられ、現存する近世の鐘楼としては大阪府下で2番目の古さです。 石段右脇にある石は「下馬」と彫られ、読みにくくなっていますが「朝見六□(郎か)□□宝前応安元年戊申□□廿日」と刻まれているようです。江戸末期に折られて溜池に沈んでいましたが、明治35(1902)年頃に寺に里帰りしたといいます。
石段左脇には江戸時代末に操業された佐井寺焼の窯があり、赤みがかった焼け土がわずかな陶片とともに見られます。茶碗から雑器まで焼いたようですが、明治はじめに廃窯となり、製品も散逸してしまっているため、3基のろくろのみが操業の様子を偲ばせます。
この他、境内にある薬師堂は、元は現在伊射奈岐神社が鎮座する場所にあったようで、その移転の時期はよくわかりません。薬師堂において、病気の原因となる疫病神や邪霊などを胡瓜に封じ込め、病気平癒を願うという「胡瓜加持」が土用の丑の日に行われています。庶民信仰としての薬師信仰の一端がみられます。

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地蔵菩薩立像(平安時代・9世紀 大阪府指定有形文化財)と地蔵塚

江戸時代に伊射奈岐神社境内にあった地蔵堂の本尊と考えられます。江戸時代の名所案内には、行基が掘り出して姿を現したという由来から「出現の地蔵」と称し、出現の地を地蔵塚と呼ぶと紹介されています。この像は、榧の一木で頭体を彫り出していて、当初は右の掌を前に開いて下げた与願印とし、左手に宝珠をとる姿であったとみられます。像全体に奥行があり、特に腹部から大腿部の重厚な力強さと抑揚のある彫りかたやY字形の衣文の彫りなどは平安前期の特徴を示しています。地蔵塚(千里山東4-13)は、江戸時代末期の書物に古墳と記載されるような形で、標高80m程の独立した小高い山でした。徳川家康が鷹狩りをした時に休憩したという伝承があり、権現松と称する大樹が昭和初期まであったといいます。

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月輪板と如来形立像

(平安時代・10世紀)

佐井寺に伝わる月輪板には、表に薬師如来の梵字が記され、裏面には天文2(1533)年に摂津国を巻き込んだ一向一揆の騒乱によって堂宇が延焼したことや、天文2年11月に仮殿が落成し12月に奉遷したということが書かれています。何を奉遷したのかは、はっきりしませんが、表の薬師如来の梵字から薬師堂の仮殿が落成し、その本尊を遷したものと考えられます。寺には、磨滅や朽損が著しいのですが、榧材と思われる一木造りの如来形立像が伝えられており、先の薬師堂の本尊薬師如来ではないかと推察されます。

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佐井の清水・おかうずゐ池【佐井寺本堂裏】

(佐井寺2-18)

この清水は、行基の祈願により湧き出たと伝えられています。かつてこの水は「おかうずゐ池」に流されていたといい、佐井寺境内に引き込まれ「お香水」と呼んで、病気の快復、特に眼病に効きめがある霊水として信仰を集めました。江戸時代、佐井寺は観音信仰の寺として有名でしたが、境外の裏山には薬師堂があり、病気を治す仏として信仰された薬師如来を祀っていたことから、薬師信仰の寺でもありました。薬師如来や観音菩薩と霊水が結びついた信仰のありかたが注目されます。おかうずゐ池北畔には五衰殿塔と呼ばれる江戸時代においても既に有名であった石塔がありますが、詳細はその当時からも不明と記されています。

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佐井寺伊射奈岐神社と伊射奈岐社一座

(佐井寺1-18)

伊射奈岐神を祀り、山田の姫宮に対する奥宮ともいわれる当神社は、元禄5(1692)の記録には「春日大明神 正八幡 牛頭天王」社とあって、山田寺(佐井寺)が神主の役目を勤めていたと記しています。元々当社は平安時代の延喜式に記載の伊射奈岐神社(式内社と呼ばれる)であったといわれることから現在の社号となっています。山田寺境内絵図には、本殿と拝殿は現在本殿が建つ丘の麓西方の奥に描かれ、遷宮したことが知られ、社殿内の社は享和3(1803)年の建築と伝えられています。社前に菅廣房の名と「伊射奈岐社一座」と刻む社号標石が建っています。江戸中期の学者並河誠所が、延喜式に記載の神社について、その所在地や名称が混乱しているのを正そうとして社号標石建立を当時の寺社奉行大岡越前守忠相に願い出たといわれ、摂津国の二十社について担当したのが廣房ということです。全ての社号標石の建立は元文2(1737)年頃に完成することになりますが、彼はその前年に佐井寺の庄屋の家で亡くなり、神社を望む向かいの丘陵中腹の墓地に葬られています。なお、社殿右脇に6世紀頃の須恵器窯跡が残されています。

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佐井寺くり抜き水路 (佐井寺1-25)五月が丘南12 【佐井寺東公園】

釈迦ヶ池は、農業用水として吉志部などの村々にとって大切な溜め池の一つでした。この池に佐井寺村の雨水を引き込むため、途中の丘陵部をくり抜いて造られたのが佐井寺くり抜き水路で、明和9(1772)年の古文書にも記されています。入口前面には土砂の流入を防ぐために土砂溜まり(沈砂池)を設け、トンネル部分は約126m、入口は約62cm幅の石組みとし、内部は素掘りで、くり抜き以東の下流部分は開渠になっていました。当時の人々が農業用水の確保に苦心し、そのために知恵を働かせ工夫をしたことを伝えています。

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地域教育部 文化財保護課
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