千里山地域

ページ番号1031118 更新日 2024年3月1日

モデルコース 徒歩3km

阪急関大前駅→千里山遊園跡(関西大学幼稚園・第一中学校・第一高校付近)→関西大学→公団千里山団地→千里山住宅地(第一噴水)→千里寺→阪急千里山駅

  • 千里山の開発
  • 千里山のまちなみ

地図:千里山地域

地図:千里山周辺図

千里山の開発

千里山は大阪市に近く、桃・梅等の名所の景勝地でもあったことから、大正~昭和初めまで様々な開発の進められた所です。住宅・遊園地・学校などが鉄道の敷設をきっかけに、相前後して建設されました。

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鉄道の敷設(現在の阪急電鉄千里線)

大正10(1921)年4月に北大阪電気鉄道十三-豊津間が開通し、同年10月に千里山まで延伸し、開発のきっかけとなりました。大正12(1923)年に新京阪鉄道となり、大正14(1925)年には淡路-天神橋間が開通しました。吹田方面から大阪市内への交通の便は格段に良くなり、沿線の開発をさらに促しました。

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千里山住宅地開発

大正9(1920)年から開発が始まり、土地付き建て売り住宅と借家経営が民間会社によって行われました。大正13(1924)年初めで戸数は約170戸、人口は300人余であったということです。中央部の第一噴水を中心として放射状に街区を設置し、ガス、上下水道、電気等の設備を備えていたといいます。計画的な町つくりということでは後のニュータウン建設の先がけともいえるものでした。その当時の面影の一端が噴水等にみられます。

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千里山団地

千里山団地は、昭和32年日本住宅公団団地としては早い時期に鉄筋のコンクリートの中層住宅等が建設され、以後、市内の公営住宅は鉄筋コンクリートまたは軽量鉄骨構造で中層住宅が中心になったといいます。

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千里山遊園・関西大学・千里寺

(千里山西1-37-42)

千里山遊園(山手町3丁目、現在の関西大学幼稚園・第一中学校・第一高校付近)は、大正10(1921)年に「千里山花壇」として開園し、昭和25(1950)年の閉園まで市民に親しまれました。昭和21(1946)年当時、サークリングウエーブ、飛行塔、子供汽車、動物園などの施設があり、昭和22・23年には菊人形展も開かれました。

関西大学(山手町3丁目ほか)は、大正7(1918)年公布の大学令によって大学昇格に必要となる校地を探していたところ、電鉄の誘致を受けた当地が景勝地で環境に恵まれていたことから、千里山に学舎が建設され、大正11(1922)年に開講しました。

昭和32(1957)年落慶の千里寺本堂は、関西大学が昭和3年の大礼の建物(饗宴場)の一部を譲り受け、講堂・武道館「威徳館」として使用していたものを昭和28年に移築したものです。この建物は、単層入母屋造銅板葺き(平成4年に瓦葺きに葺替)の建築で、大ホールやステージの一部、黒漆塗り二重折上格天井、三十五灯用シャンデリア・三灯用ブラケットが残り、建設当時の面影がよく残っています。平成14年2月14日に国の登録有形文化財となりました。

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千里山のまちなみ 千里山西一帯

千里山西地域の住宅は、傾斜面に石垣を積んでテラス状に造成し、周囲に塀や生け垣を巡らせて敷地を区画し、その中に瀟洒な木造2階建住宅を構えるという特徴が見られます。そして、こうした屋敷が通り沿いに連続しながら、面的な広がりをもって展開します。住宅のなかには昭和初期の洋風や和洋折衷の建築も残り、住宅・石垣・生け垣が周囲と調和しながら連続して広がる景観は、千里山のまちなみにしっとりと落ち着きのある雰囲気を与えています。千里山の住宅地や建物は、日本の近代住宅史を考えるうえで貴重といわれています。

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このページに関するお問い合わせ

地域教育部 文化財保護課
〒564-0001 大阪府吹田市岸部北4丁目10番1号 (吹田市立博物館内)
電話番号:06-6338-5500 ファクス番号:06-6338-9886
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