垂水・江坂地域

ページ番号1031119 更新日 2024年3月19日

モデルコース 徒歩6km

阪急豊津駅→上之川・糸田川改修記念碑→上之川水路跡→雉子畷碑→垂水神社・垂水遺跡→垂水南遺跡→風災記念碑(豊津第一小学校内)→稲荷神社→渡辺英綱の墓→油掛け地蔵・瑞泉寺・感神宮・家形石棺蓋→北大阪急行江坂駅

  • 豊嶋郡条里遺跡
  • 五反島遺跡
  • 旗振り通信跡と垂水西原古墳
  • 蔵人遺跡

地図:垂水江坂地域

地図:垂水江坂地域周辺図

豊嶋郡条里遺跡

(泉町2-29-1 メイシアターいずみの公園内)

条里とは、古代に全国的な規模で施行されたとされる土地の区画のことです。ここは豊嶋郡条里の東限とみられ、発掘調査の結果、両岸に堤防を備え護岸された幅約1.1m・深さ約0.5mの鎌倉時代の水路などが発掘されました。郡条里の境界でこのような整備された中世水路を確認したのは珍しく、貴重な調査例といえます。

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上之川・糸田川の改修と旧水路跡

断面標本のような姿を見せている旧上之川の水路跡(垂水町1)は、この川が現流路よりも西方を流れ、幅も狭く浅い天井川であったことを実感させてくれます。上之川と糸田川の氾濫は千里丘陵の開発が一因ともいわれ、毎年のように起きたといいます。特に昭和15(1940)年7月の豪雨の被害は大きく、両川の堤防が8カ所も切れ、垂水一帯で450戸以上の家屋が床上まで水につかるという大洪水になり、昭和16~17年度の改修工事によりほぼ現在の姿になりました。豊津駅前交番敷地にある「記念碑」と刻まれた石碑は、繰り返される洪水被害の大きさと改修の苦労、完成の喜びと感謝を記念したもので、自然災害とその防止に懸命となった人々の苦労を物語っています。旧上之川水路跡は平成26年3月に共同住宅の建築により水路部分は消滅しましたが、堤防の一部が遺存し、事業者により水路を模したモニュメントと説明板が現地に設置されています。

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雉子畷

(垂水町1-15)

石碑には「長柄の人柱」伝説のその後の話が刻まれています。雉子畷の伝説は、少なくとも江戸時代中頃には、垂水の地に伝わる話として有名で、江戸時代の名所案内にも紹介されています。垂水神社の西には、後に主人公である娘が尼となって父を供養したと伝える禅宗の裁松寺がありましたが、明治の初めに廃寺となり、本尊などは明誓寺に引き継がれたということです。この碑は雉子畷伝説に対する垂水の人々の心情を永く語り伝えていくことでしょう。

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垂水神社

(垂水町1)

延喜式内名神大社で、崇神天皇の皇子である豊城入彦命を主祭神としています。平安時代前期成立の『新撰姓氏録』によれば、孝徳天皇の時代、諸国干ばつした際、豊城入彦命の子孫である阿利真公が高樋を造って難波長柄豊碕宮に垂水岡基の水を献上した功によって垂水公の姓を与えられ、垂水神社を掌るようになったといいます。平安時代の「続日本後紀」「日本三代実録」等に祈雨に関わる記録がたびたび見られることから、祈雨神として著名であったようです。また、八十嶋祭に奉仕する五社の一つに数えられています。万葉集にある志貴皇子の歌「石ばしる 垂水の上の早蕨の 萌え出づる春になりにけるかも」は当地を詠んだという説が有力です。

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垂水遺跡と海食崖

(円山町・垂水町1・2)

垂水遺跡は弥生時代を中心とする集落遺跡です。丘陵上で竪穴式住居跡・高床式建物跡等の遺構と弥生土器・石鏃(石のやじり)・砥石・石槍等の遺物が発掘され、弥生時代後期の高地性集落であったことが明らかとなりました。また、近年、古墳時代前期の熔けた痕のある大型の青銅鏡の一部が出土し、その性格が注目されます。
垂水遺跡周辺の丘陵南裾は急な崖状の傾斜となっていて、これは、海食崖の名残とみられます。今から約6000年前の縄文時代前期に地球全体の気温が上昇し、海水面の上昇(縄文海進)が進んだ結果、千里丘陵の南縁部が波に洗われ形成されたと考えられます。以後崖下の低地は徐々に陸地化が進み、垂水遺跡を含め他の遺跡の集落の成り立ちに大きな影響を及ぼしたと思われます。

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垂水南遺跡

(垂水町3・江坂町1)

垂水南遺跡は、古墳時代を中心とする集落遺跡で、標高約1.5mの低地に竪穴式住居跡、高床式建物跡、井戸、土坑、水田畦畔、大小の溝などの遺構と土師器、須恵器など多量の土器、金属器・玉造り・漁業などの生産と漁業を示す遺物が出土しています。東海・山陰・山陽地方などの搬入土器が大量に出土していることから、これらの地域と何らかの交流があったことがわかり、古墳時代の集落のようすを知る上で重要な遺跡です。出土した平安時代の土器に「垂庄」と墨で書かれたものがあり、東寺領垂水荘を示すものと考えられます。東寺領垂水荘は弘仁3(812)年に成立した荘園で、豊中市東端部~吹田市西部の広大な範囲に及びます。この墨書土器は荘域から離れて出土していますが、初期の荘園の実態を示す資料といえます。

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五反島遺跡

(南吹田5)

五反島遺跡は弥生~室町時代の複合遺跡です。発掘調査によって西に向かって流れる古墳~室町時代の神崎川旧河道が7条、平安時代の堤防とともに弥生~室町時代の多量の遺物が発掘されました。特に、古墳時代と平安時代の遺物がまとまって出土しています。また、平安時代の遺物には瑞花双凰麒麟狻猊文鏡・馬具(壺鐙)・鉄鏃・刀子・鉄斧・かまど等優れたものもあり、これらの一部は河川で行われる祭祀に使用されたと考えられます。

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風災記念碑、風災記念塔

(江坂1-15 豊津第一小学校内)(岸部中2-19 岸部第一小学校内)

昭和9年9月21日に襲来した室戸台風は吹田の各地に大きな風(最大瞬間風速約60mを超えたという)と雨の災害をもたらしました。この日、豊津尋常高等小学校(現豊一小)では、倒れた校舎の下敷きとなり、先生・児童あわせて53名が、また、岸部尋常高等小学校(現岸一小)では28名の児童が校舎の倒壊で犠牲となる大惨事がおこりました。豊一小内では、この災害で児童たちをかばって亡くなった横山・吉岡先生、そして犠牲となった児童たちのことを忘れないように、風災記念碑が、岸一小内には犠牲となった児童を追悼して風災記念塔が建てられています。

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旗振り通信跡と垂水西原古墳

(千里山西3)

千里山の通称三本松の地点は、かつては83mの標高をもち、見通しのきく所で、旗振り通信の中継地の一つがあったといわれています。旗振り通信は江戸中期から大正初めまで大坂(大阪)堂島の米相場を速く伝達するため行われました。吹田に関わる通信網は京都方面へのル-トで、幕末から始まり、堂島-千里山-茨木阿武山-柳谷西山-京都のル-トで業者により行われました。飛脚よりも通信速度が速く、有効な通信手段でしたが、大阪市内に高い建物が増加し、見通しがきかなくなったことと電話による通信が行われるようになったため、明治末に途絶えました。また、ここよりやや南東へ下がった尾根上で昭和49(1974)年に多量の石材が散乱しているのが見つかりました。そこは古墳の立地として最適であること、石材が前期古墳の石室材として使われるものが多いこと、赤色顔料付着の石材片もあることなどから、前期古墳の存在が推定され、垂水西原古墳と命名されました。しかし、既に旧状は失われ、古墳の詳細については不明です。

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感神宮(素盞鳴尊神社)・瑞泉寺・太鼓御輿

(江坂町3-68)

感神宮の本殿は、三間社とするところを間柱を入れずに一間社の流造に見せ、正面を広くとる工夫がされています。装飾の様式などから、本殿の建造は天和3(1683)年の石鳥居より以前と考えられます。隣接する瑞泉寺は、もとは浄土宗の松泉庵という感神宮の神宮寺でしたが、元禄11(1698)年に禅宗に変わったといいます。方丈(本堂)や薬医門としても特異な形式をとる山門など禅宗寺院の風情を良く伝える寺です。この社寺の関係は江戸時代を通じて変わることがなく、明治になって完全に分離したようです。神社秋祭りには彫り物で飾られた嘉永6(1853)年建造の太鼓御輿が担ぎ出され、神木(古墳の石棺がある)周りを何度も回ります。この社寺は神仏習合のありようや、神を迎える神社祭礼など、近世の村落における信仰の様子を伝えます。

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家形石棺蓋

明治初期、社殿造成の際に出土したと伝えられる石棺は竜山石製で、内側に浅く掘り込まれ、外側に退化した縄掛け突起のある家形石棺の蓋石です。7世紀初頭のものと考えられ、神社境内周辺に古墳があったと推定されます。竜山石は兵庫県高砂市周辺で産出される良質の流紋岩質凝灰岩で、古墳時代には石棺材として盛んに使われました。特に、6世紀末~7世紀には、奈良、大阪、京都等に家形石棺として多量に運ばれており、大和政権の中枢を担っていた豪族層に採用されたと考えられます。

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油かけ地蔵

(江坂町3-67)

もとは吹田街道と新御堂筋線が交差している付近にありましたが、新御堂筋線の延長工事のため石造の地蔵尊本尊・堂・石仏など全てが現在地に移されたといいます。この地蔵は「油かけ地蔵」と呼ばれ、油をかけて祈願すると歯痛が治ると伝えられています。地蔵は利益や霊験の内容、祈願の方法に応じて様々な名称でもって親しみを込めて呼ばれることが多く、この地蔵尊は祈願の方法から名付けられたものでしょう。岸部の名次宮と同様に「小栗判官」にまつわる伝承があります。

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蔵人遺跡

(江坂町2・3・豊津町)

蔵人遺跡は弥生~室町時代の複合遺跡です。遺跡の主なものが中世の集落跡であるとわかっており、これまでの調査で鎌倉~室町時代の井戸・水路・石組溝・掘立柱建物跡等が発掘されています。この一帯は、古代末から中世には奈良春日社の垂水西牧と京都東寺の垂水荘が置かれ、その中の村落である蔵人村があった所と考えられています。こうした遺構・遺物等の考古資料と文献史料から中世蔵人村のようすの一端を知ることができます。

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渡辺英綱

(江坂町3丁目)

江坂公園墓地に、渡辺英綱の墓が残されています。砂岩製の方柱型墓石の正面に「長柄傘 赤袋 大数量院覃莖墓」、側面に「従五位下 渡邉前養麟軒樂山源英綱入道」「天明八戊申六月五日寂」とあります。渡辺英綱は江戸時代中期の和算家で、備後国芦田郡上有地村(現在の広島県福山市)出身です。大坂堂島船大工町などに仮住まいをし、明和元(1764)年に和算書『大数量握掌一覧』を出版しました。天明8(1788)年に江坂の法泉寺に滞在中に死亡したといわれています。従五位下という官位を得ていることと「長柄傘赤袋」から様々な逸話が生まれたようです。

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稲荷神社

(豊津町38)

主神は五穀を司る保食神です。元禄5(1692)年の記録には蔵人村稲荷明神社でこけら葺き本殿、拝殿、鳥居、宮道等の記載があり、江戸時代前期にはすでに成立し、村人によって祀られていたようです。近世の当神社と近隣にあった寺院(浄土宗の清林庵、浄土真宗の道場)の構成は榎坂村での感神宮・瑞泉寺・法泉寺のそれとよく似ており、さらに祭りのありかたも感神宮に類似します。これらのことは、蔵人村の成り立ちが榎坂村と深く関係することの一端として興味深いものです。

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このページに関するお問い合わせ

地域教育部 文化財保護課
〒564-0001 大阪府吹田市岸部北4丁目10番1号 (吹田市立博物館内)
電話番号:06-6338-5500 ファクス番号:06-6338-9886
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