近現代

アサヒビール

明治22年(1887年)に、国産のビール造りを理念として大阪麦酒會社(現アサヒビール株式会社)が設立されました。吹田の地がビール造りに選ばれたのは、神崎川の水運や駅からの鉄道輸送による原料や製品の輸送に便利であったことや、大消費地の大阪に近い、醸造に適した良質な水があること等が理由であると考えられています。

写真:大阪吹田村醸造場之図
大阪吹田村醸造場之図(アサヒビール株式会社蔵)

吹田操車場

写真:吹田操車場全景
吹田操車場全景(右側は国鉄吹田工場)

吹田操車場は大阪市を中心とする物流を円滑にするため大正12年(1923年)に操業を開始しました。昭和に入ると戦時体制の中で貨物取扱数が増大していき、昭和18年(1943年)まで拡張を続けます。吹田、岸辺、千里丘の3駅にまたがる広大な施設で、1日の操車能力は8,000両に達し、東洋一の規模を誇りました。


写真:北大阪健康医療都市
北大阪健康医療都市(健都)

しかし、時代の流れとともに地域の貨物輸送体系が大きく変化する中、昭和59年(1984年)に吹田操車場はその役目を終えました。現在、吹田操車場跡地は、「北大阪健康医療都市(健都)」として生まれ変わりました。

吹田市誕生

昭和15年(1940年)4月1日、1町3村(三島郡吹田町、三島郡千里村、三島郡岸部村、豊能郡豊津村)が合併し、吹田市が誕生しました。当時の人口は14,326世帯、66,094人でした。
昭和28年(1953年)に三島郡新田村の一部(大字下新田)、昭和30年(1955年)に三島郡山田村を編入し、現在の吹田市域がほぼ確定しました。

写真:市役所
市制施行当時の市役所

千里ニュータウン

千里ニュータウンは高度経済成長期に開発された日本で最初の本格的なニュータウンで、吹田市・豊中市の2つの市域にまたがって建設されました。
幹線道路で区切られた近隣住区ごとに学校、商業施設が入る近隣センター、診療所などが計画的に配置され、歩車分離を導入し、利便性と安全を考慮したまちづくりが行われました。
千里ニュータウンは後の全国のニュータウン建設計画のモデルとなり、大きな影響を与えました。
昭和37年(1962年)に佐竹台で第1期入居が始まり、まちびらきしました。

写真:千里ニュータウンの全景
千里ニュータウンの全景(昭和41年撮影、大阪府公文書館蔵)

日本万国博覧会

昭和45年(1970年)、アジアで最初の万国博覧会として、吹田市北部の千里丘陵を会場に日本万国博覧会が開催されました。「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会は、3月15日~9月13日までの期間で約6,421万人という当初の予想をはるかに超える入場者数を記録しました。当時の日本は高度経済成長のピークで、万国博覧会は東京オリンピックに次ぐ大規模プロジェクトでした。
万国博覧会の開催やニュータウンの開発によって市域は大きな影響を受け、新御堂筋・中央環状線・中国自動車道・吹田インターチェンジ・北大阪急行等の道路、鉄道が一挙に整備されました。
万国博覧会後の会場跡地は、万博記念公園として整備され、現在も多くの人の憩いの場となっています。

写真:日本万国博覧会の様子
日本万国博覧会の様子(写真提供:大阪府)