history

吹田市の歴史

古代

瓦窯跡がようせき

奈良時代と平安時代初めの吹田では、瓦を造る大規模な工場がありました。

七尾瓦窯跡

七尾瓦窯跡は岸部北5丁目にある瓦を焼く窯(瓦窯)の遺跡で、7基もの瓦窯が確認されています。この瓦窯跡は、奈良時代に副都であった後期難波宮(726~784年)の瓦を焼いた、造宮瓦窯跡でした。重要な瓦窯跡として国の史跡指定を受け、史跡公園として整備されています。

  • 後期難波宮復元図(大阪市教育委員会提供)

  • 七尾瓦窯跡(3号窯跡)

吉志部瓦窯跡

吉志部瓦窯跡は岸部北4丁目の紫金山公園内にあります。これまでの発掘調査で19基の瓦窯が確認されている大規模な遺跡です。吉志部瓦窯跡では平安京の瓦を焼いていましたが、工房跡では難波宮の瓦も出土しています。

吉志部瓦窯跡復元模型

中世

吹田氏と吹田城

室町時代には、在地の有力者で、その地名を姓とする国人領主が各地におり、吹田では吹田氏が勢力を持っていました。吹田氏は吹田城を築城し、本拠としていたと考えられています。
長年吹田で勢力を誇っていた吹田氏ですが、度重なる戦乱で衰退し、
1571年、織田信長配下の和田惟政によって滅ぼされました。
その後荒木村重の子が吹田氏の娘をめとり、吹田を名乗っていましたが、
1579年村重謀反の際に夫妻も処刑され、滅びました。
吹田城については、いくつかの伝承地がありますが、
現在のところ城跡とされる遺構は確認されていません。

吹田城跡絵図
(「東摂城址図誌」大阪府立中之島図書館蔵)

近世

交通の要所

吹田は古代から、京都・大坂・西国を結ぶ大動脈である淀川水系の神崎川が流れていることから、
河港として栄えました。江戸時代には、人々は渡し船によって神崎川を渡っており、
「吹田のわたし」と呼ばれました。
また陸路も、亀岡街道や吹田街道などが通じており、
旅行や信仰、生活の道として利用されていました。

吹田の渡「摂津名所図会」より

旧西尾家住宅(国指定重要文化財)

西尾家は、宝永3年(1706年)から仙洞御料の庄屋を務めました。
現在残る建造物のうち、米蔵は江戸時代後期、それ以外は明治時代に整備されたもので、近代の優れた和風建築です。また、大正時代に和室棟と洋室棟が整備されました。
現在は旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)として一般公開しています(庭園と主屋の計量部屋のみ)。

旧中西家住宅
(国登録有形文化財 市指定有形文化財)

中西家は、江戸時代には吉志部東村の庄屋・嶋下郡内の淀藩領の大庄屋として村政を司りました。
現在の建物は、文政9年(1826年)から主屋を中心に整備され、江戸後期の庄屋屋敷の景観が整ったと考えられます。主屋の前面を掘り下げて造られた庭は、他に例をみない斬新なものです。
現在は旧中西家住宅(吹田吉志部文人墨客迎賓館)として一般公開しています。

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